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posted at 00:26:44
浅原事件では亀山院弾劾の急先鋒となった西園寺公衡が亀山院の遺志を受けて恒明親王の庇護者となった経緯についても一応の仮説を考えているが、その点はまた後で。
posted at 00:20:00
しかし、嘉元元年(1303)に亀山院に恒明親王が生まれ、翌二年に東二条院・後深草院が相次いで薨去。兄の重石がなくなった亀山院は何を思ったのか。後宇多院と遊義門院が進めてきた両統迭立の修復への嫌悪、自分の血を純粋に受け継ぐ恒明親王を皇嗣としたいとの感情が生まれたのではないか。
posted at 00:14:33
伏見天皇退位後、後伏見天皇が僅か二年半で退位した後、正安三年(1301)、後二条天皇践祚となるが、奇妙なことに両統の関係は極めて円滑で、後深草院・亀山院兄弟、伏見・後宇多がともに参加する行事が頻繁に開催される。そしてその中心にいたのが遊義門院。
posted at 00:07:43
後深草院の意向に反して同居するようになった遊義門院と後宇多院の間には、結果的に皇子は生まれず。しかし、遊義門院は堀川具守の娘・基子が産んだ邦納親王(後二条天皇)の養母(ないし准母)となる。
posted at 00:04:31